世界の認識について私が思うこと(仮)
多分どうしようも無いほどまとまりのない文章になる。
アウトプットの練習なのに人が読むことがちゃんと想定されていないのはヒドい。
世界はたくさんの情報に満ちている(「情報」という機械学習の文脈で情報量という概念が出てきたので本当はもう少し丁寧に述べるべきなのかもしれないが、そんなに真面目に考えたこともないので情緒的に述べる)。しかしスマホに映し出される情報はデジタル化(量子化)された情報(だからこそ簡単に送受信できる)だ。
いつかのある日、ふと目を上げてスマホから目を離したとき、目の前に広がる情報の多さに圧倒された事がある。スマホどころかゲームボーイの画面がカラーじゃない時代から生きている人間なので、昔は当たり前のように見ていた風景のはずなのだが、いつのまにか手のひらにある装置に気を取られて視界から消えていた。
絵を描くようになった事も大きい。
絵の練習にあたって、とても大きな比重を占めるものとして「観察」がある。例えば他人のイラストを15分くらいひたすら入念に観察する。やってみるとわかるが、非常にたくさんの発見がある(もちろん絵を描いているからこそ気付く点もたくさんあるので、まったく絵を描かない人が同じような発見があるとは限らない。ちなみに、それは自分自身にも言えることで、3Dモデリングをやっているひと、アニメを描いたことがあるひと、油絵をやってる人は、私とはまた違ったたくさんの気づきを得るのだろう)。
観察という行為は実際に絵を描くのに匹敵する、あるいはそれ以上の訓練になるとの主張も見たことがある。個人的な実感としては同意する。
少し脱線した。
何が言いたいかというと、他人のイラストを観察したことの延長線で、目の間に広がる風景をイラストにするつもりで観察すると驚くほど多くの発見があった、という事だ。
スマホから目を離したときに大きな衝撃を受けたのは、そういった下地があった事も強く影響したのかもしれない。
そういう意味では昔に日常的に見ていたときよりも多くの情報を受け取っている部分もある。ただ子供時代にはかなわないと思う。自分も子供と同じ風景を見ているはずなのに、きっと私たちは多くの情報をそぎ落としている。きっともう当たり前だと思っている物が多いから、興味の対象がしぼられているから、意識が向かないのだ。
意識的にやってみるとわかるが、私は通勤経路の脇に咲いている雑草を観察していなかった。私は電柱に貼られている住所を確認したことがなかった。私は今棲んでいる住居のとなりの建物の壁を触って材質を確かめたことがなかった。私はいつも歩いている道路の幅が車何台分か考えたことがなかった。私は私は私は。
これ程の情報を見落としていたことに対する、恐怖。
----仕切り直し---- ← 本当に仕切りだ(どうでもいい)
私の視界にはたくさんの物が映っている。
例えばあるラーメン屋さんのカウンターに座っている風景を想像して欲しい(妙に生々しいのは実話だから)。何も考えないでいるとスマホの画面をぽちぽちして、ラーメンが来たら掻き込んで、お勘定したらさようなら。お終いである。
しかしふと目の前の風景に意識を集中してみる。
一度目を閉じて呼吸を整え、目の前の風景をイラストに落とす気持ちで観察してみる。
すると色々な物が目に入ってくる。
換気扇が二つある。埃だらけだ。
お玉が妙にいっぱいある(20本くらい?)
麺の量を図るためのアナログのはかりが置いてある。
その周りの粉が散らばっている。
良く分からない配管がある。
チャーシューを炙るための金網がある。
他にも色々。
ここで少し気持ちを変えてみる。
「アニメーションに落とすなら?」
するとどうだろう。今度は違うものが目に入る。
まず煙。面をゆでる場所からモクモクと湯気がたっている。
さっきのチャーシューを炙るところからも煙が出ている。
皿洗いをする洗面台に水が流れ込んでいる。
換気扇のとなりで風に揺られている謎の金網がある。
ライトがゆれている。
何に驚くかというと、今挙げたものの存在に最初のステップ(イラストを描く気持ちで見る)ではまったく気付いていなかったという事だ。
煙の存在に一度気付いてしまうと、逆に見えてなかった風景を想像できない。
でも確かに見えてなかった。煙に気付いた時はかなり驚いた。正直気付いてなかった自分に引いた。
次は「光」を捉えることに意識を集中してみる。
すると今度は先の金網(換気扇に揺られている)の影の存在に初めて気付く。
めっちゃ揺れてる。存在感やばい。一度気付くともう忘れるの無理。
でもこれも第二のステップではまったく気付いていなかった。
-------
私はどれだけ世界をちゃんと見ているのだろう。
どれだけの世界を切り捨てているのだろう。
きっと気付いていないものがたくさんある。
目に見える風景だけでも上のありさまだ。
目に見えないものなんてきっともっと見落としている。
(ここで「目に見えるもの」と単純に言っているが、目の前にある風景から情報を抜き出すという行為が本当に目に見ているものを抜き出しているか、という問題もある。たとえば「道路の幅」というものは目の前の風景に実在するだろうか?それともただの概念だろうか。「道路」自体もそうだ。この辺も色々悩んでいるが今日はやめる。)
全然頭の中が整理できない。
もっと書きたいことがたくさんあるはずなのに。
ちょっと憂鬱になった。
今日はお終い!
アウトプットの練習なのに人が読むことがちゃんと想定されていないのはヒドい。
目に映る風景について
自分の目に映っているものでさえ、自分が良く認識できていないという事を最近強く感じる。「最近」というのがいつからかは自分も良く分からないが、スマホのデジタルな画面に対して日々感じている個人的な危惧が積み重なった結果なのかもしれない。世界はたくさんの情報に満ちている(「情報」という機械学習の文脈で情報量という概念が出てきたので本当はもう少し丁寧に述べるべきなのかもしれないが、そんなに真面目に考えたこともないので情緒的に述べる)。しかしスマホに映し出される情報はデジタル化(量子化)された情報(だからこそ簡単に送受信できる)だ。
いつかのある日、ふと目を上げてスマホから目を離したとき、目の前に広がる情報の多さに圧倒された事がある。スマホどころかゲームボーイの画面がカラーじゃない時代から生きている人間なので、昔は当たり前のように見ていた風景のはずなのだが、いつのまにか手のひらにある装置に気を取られて視界から消えていた。
絵を描くようになった事も大きい。
絵の練習にあたって、とても大きな比重を占めるものとして「観察」がある。例えば他人のイラストを15分くらいひたすら入念に観察する。やってみるとわかるが、非常にたくさんの発見がある(もちろん絵を描いているからこそ気付く点もたくさんあるので、まったく絵を描かない人が同じような発見があるとは限らない。ちなみに、それは自分自身にも言えることで、3Dモデリングをやっているひと、アニメを描いたことがあるひと、油絵をやってる人は、私とはまた違ったたくさんの気づきを得るのだろう)。
観察という行為は実際に絵を描くのに匹敵する、あるいはそれ以上の訓練になるとの主張も見たことがある。個人的な実感としては同意する。
少し脱線した。
何が言いたいかというと、他人のイラストを観察したことの延長線で、目の間に広がる風景をイラストにするつもりで観察すると驚くほど多くの発見があった、という事だ。
スマホから目を離したときに大きな衝撃を受けたのは、そういった下地があった事も強く影響したのかもしれない。
そういう意味では昔に日常的に見ていたときよりも多くの情報を受け取っている部分もある。ただ子供時代にはかなわないと思う。自分も子供と同じ風景を見ているはずなのに、きっと私たちは多くの情報をそぎ落としている。きっともう当たり前だと思っている物が多いから、興味の対象がしぼられているから、意識が向かないのだ。
意識的にやってみるとわかるが、私は通勤経路の脇に咲いている雑草を観察していなかった。私は電柱に貼られている住所を確認したことがなかった。私は今棲んでいる住居のとなりの建物の壁を触って材質を確かめたことがなかった。私はいつも歩いている道路の幅が車何台分か考えたことがなかった。私は私は私は。
これ程の情報を見落としていたことに対する、恐怖。
----仕切り直し---- ← 本当に仕切りだ(どうでもいい)
私の視界にはたくさんの物が映っている。
例えばあるラーメン屋さんのカウンターに座っている風景を想像して欲しい(妙に生々しいのは実話だから)。何も考えないでいるとスマホの画面をぽちぽちして、ラーメンが来たら掻き込んで、お勘定したらさようなら。お終いである。
しかしふと目の前の風景に意識を集中してみる。
一度目を閉じて呼吸を整え、目の前の風景をイラストに落とす気持ちで観察してみる。
すると色々な物が目に入ってくる。
換気扇が二つある。埃だらけだ。
お玉が妙にいっぱいある(20本くらい?)
麺の量を図るためのアナログのはかりが置いてある。
その周りの粉が散らばっている。
良く分からない配管がある。
チャーシューを炙るための金網がある。
他にも色々。
ここで少し気持ちを変えてみる。
「アニメーションに落とすなら?」
するとどうだろう。今度は違うものが目に入る。
まず煙。面をゆでる場所からモクモクと湯気がたっている。
さっきのチャーシューを炙るところからも煙が出ている。
皿洗いをする洗面台に水が流れ込んでいる。
換気扇のとなりで風に揺られている謎の金網がある。
ライトがゆれている。
何に驚くかというと、今挙げたものの存在に最初のステップ(イラストを描く気持ちで見る)ではまったく気付いていなかったという事だ。
煙の存在に一度気付いてしまうと、逆に見えてなかった風景を想像できない。
でも確かに見えてなかった。煙に気付いた時はかなり驚いた。正直気付いてなかった自分に引いた。
次は「光」を捉えることに意識を集中してみる。
すると今度は先の金網(換気扇に揺られている)の影の存在に初めて気付く。
めっちゃ揺れてる。存在感やばい。一度気付くともう忘れるの無理。
でもこれも第二のステップではまったく気付いていなかった。
-------
私はどれだけ世界をちゃんと見ているのだろう。
どれだけの世界を切り捨てているのだろう。
きっと気付いていないものがたくさんある。
目に見える風景だけでも上のありさまだ。
目に見えないものなんてきっともっと見落としている。
(ここで「目に見えるもの」と単純に言っているが、目の前にある風景から情報を抜き出すという行為が本当に目に見ているものを抜き出しているか、という問題もある。たとえば「道路の幅」というものは目の前の風景に実在するだろうか?それともただの概念だろうか。「道路」自体もそうだ。この辺も色々悩んでいるが今日はやめる。)
全然頭の中が整理できない。
もっと書きたいことがたくさんあるはずなのに。
ちょっと憂鬱になった。
今日はお終い!
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